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日本国憲法の基本的人権の一つに、「表現の自由」というものがあります。
平たく言えば、全ての意見を検閲されたり規制されたりすることがなく表明できる権利のことですね。

最近、表現の自由の中に含まれる「思想の自由」について、この権利が脅かされているのではないかという人と話をしました。
確かに、芸能人の炎上騒動や10年前20年前のネタや行為の掘り起こしなど最近まで一切話題にあがらなかったことがメディアに取り上げられる事は増えたように思います。

では、我々は思想の自由、表現の自由を脅かされているのでしょうか。
実際はそんなことはありません。むしろ規制とは真逆に、誰に阻害される事もなく意見や表現を手元のスマートホン一つで手軽に全世界に発信できます。歴史的に見ても、これほど容易に表現の場が持てることは他に例がありません。

私は、今の世の中を「自己責任の世」であると捉えています。
思想は自由。表現も自由。
だがその責任は全て自分でとらなければいけない。発信には覚悟が伴う。そんな当たり前が広く認知される世が訪れたのではないでしょうか。
発信に求められる勇気と覚悟の重要性が確立されたいま、大手を振って発信ができる人はそう多くありません。
基本的人権である表現の自由が今、私たちに牙をむいているのです。

規制されていることは不自由ではありますが、同時に安心感があります。
規制を突破した時点で自分の発信にある程度の信頼が担保されるからです。また、規制をしなかった側も責任を持つ事になるという事実も重要です。他者が責任の一部を持ってくれるならば、それほど心強いことはありません。そういう意味で言えば、規制とは悪ではありません。

むしろ今こそ規制が必要なのではないでしょうか。
もちろん国が公的にインターネット上の発信や書物を規制するということは現実的ではありません。
今、他者の表現に介入し規制を行うべきは出版社や芸能事務所、そして我々のような教育者に当たります。
それらの機関が適切な規制を行うこと。言い換えれば責任の半分を肩代わりすることこそが発信者を守り、適切な表現を保護する行為であるように思います。
発信者に全ての責任を負わせ、判断を任せることで世の中がうまく回るほど「個」は万能ではないのではないというのが私の意見です。

三谷幸喜さんが脚本を務めた「笑の大学 」という作品があります。
国民の娯楽である演劇は規制され、警察で台本の検閲を受けなければ上演できなくなった時代。生まれて一度も心の底から笑ったことがない検閲官・向坂睦男と、劇団『笑の大学』座付作家・椿一が警視庁の取調室で顔を合わせるところから物語が始まる、「規制」をストーリーベースにした二人の男の物語です。

この作品でも、二人の男の間には次第に絆が生まれます。
今の時代を渡っていくかぎは「規制」と「絆」にあるのではないでしょうか。

個の多様性は狭まります。ですが、それは仕方のない事であると思います。
個の多様性というのはあくまで個の安全が約束されている時でないと成立しないからです。
一人でいると危険なのであれば、「集団」を作るほか道はありません。そしてそこには絆が必要です。ここでいう絆とは、無条件の愛情ではなく精神的な利害の一致です。「お互いがお互いらしくあるために、お互いを守ろう」という取引を絆と呼ぶことにいたしましょう。

今こそ手を取り合い、絆を育むことが大切です。それこそが人類の築いてきた表現の自由と多様性を守ることにつながります。
表現の分野は大きく進化し発展しています。どうしたら誰もが傷付かずにいられるか、そんな理想を社会全体で追い求めています。そして進化に伴い多くの不満が出ています。「傷つけあい、それでも共に生きることも大切なのではないか」「いやいや、心の傷が原因で社会生活を送れなくなる人もいる。その責任をどう取るつもりなのか。」「たとえ理想論でも、全員が傷付かない道を探すべきではないか。」さまざまな意見が交差しているように感じます。

社会は絶えず前進しています。その変化の中で私たちは次にどうするべきなのかを常に考えなければいけません。
私たちが社会の一員である以上、私たちの考えもまた社会意識の一端を担っているからです。

 

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「やらなくてもできる」「なんとかなる」
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「やればできる」「なんとかする」
そういった自信を持つ。

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