家に帰るとスーツを脱ぎポロシャツに着替える。
社会人1年目に付き合っていた彼女には変だと言われた。
「もう家を出ないんだから、寝巻きに着替えればいいのに。」との事だ。
理解ができなかった。
この後は夕食作りがある。どんなに気をつけていても油は跳ねるし匂いもつくだろう。それを寝室に持ち込むというのは不衛生ではないだろうか。
食事を終え、洗い物を済ませた後は翌日の授業準備に取り掛かる。
ふと、自分はなぜ教師をしているのだろうという想いが胸をかすめた。
教師を志したのは何故だったか。20代前半の頃の根拠のない自信はどこに行ったのだろう。次第にあたりが灰色に染まっていく。授業準備の手が止まった事にすら、ゴウカクは気づいていない。
鳴り響く着信音が静寂を打ち破った。時刻は21時30分。未登録の番号に少し身構えつつスマートフォンの通話ボタンを押す。
「おお、ゴウカクか。」
懐かしいしゃがれ声に緊張が緩んだ。最後に会ったのは10年以上前になるか。電話口に響いたのは世話になった学習塾の恩師、荒北誠の声だった。
「荒北先生!お久しぶりです。」
「元気そうじゃねえか。」
ゆっくりとした音で荒北が言う。以前のまくし立てるような豪快な話し口調はなりを潜めているが、威圧感は健在だった。
「ええ。元気です。先生もお元気そうで。どうされたんですか?」
「いやなに、お前教師になったって連絡してきたっきり何年も連絡がねえから、どうしてるかと思ってよ。」
しばらく他愛のない話をした後、ふとこの間の事を話そうと思った。学力が志望校に届いていない生徒に対してかける言葉が見つからなかったことを。
「そういえば…」と言葉を切り出し、ありのままを荒北先生に伝える。
「なるほどなあ…」
うーむ、と荒北が小さく唸った。
「そりゃお前、志望校を変更させたほうがいいだろ。」
ゴウカクが予想していた通りの言葉だった。
「だけどな。生徒にもプライドってもんがある。伝えるなら呼び出して本人だけに伝えなきゃダメだ。」
「はい。ありがとうございます。」
どれだけ夢を見て高い目標を持とうとも、想いだけで突破できるほど受験は甘くない。それをきちんと伝えないことは教師としての責務を全うしていないことになる。
明日、時間をとって生徒と話をしなければいけない。
受験まであと1年と2ヶ月。どう考えても現実的ではない。
しっかりと現実を伝えることもまた教師の役目だ。
短くお礼を言って電話を切った。
ソファに体を投げ出し、右腕で瞼をおおう。
決意とは裏腹に、その心はくすんだままだった。
結局荒北先生はなぜこんな時間に連絡してきたのだろうか。
少し考えたが、もやのかかった頭では思考がまとまらずその一切を放棄した。
その後は寝巻きに着替えることもなく、まどろみの中に落ちる。
社会人7年目にして、初めての経験だった。